メキシコシティ

メキシコシティ~歴史地区とソチミルコ運河を訪れる

メキシコシティに行ったら歴史地区にいかない理由はありません。メキシコには古代遺跡に関する世界遺産が11件ありますが、そのうち、メキシコシティの近郊には

1).古代都市テオティワカン
2).歴史地区とソチミルコ湖の運河
3).ソチカルコの古代遺跡地帯

があります。中でも歴史地区は一番近く、ちょっとした準備もなしで行くことが可能です。

今日は街から一番近いメキシコシティ歴史地区と南のソチミルコ湖運河を訪れてみました。
メキシコシティ

歴史地区には地下鉄やメトロブス、タクシーなどで行くことができます。今回は比較的安いメトロを使ってみました。
歴史地区ではかなりの距離を歩くことになるので、ホテルのタクシーを使って行った方が断然楽なのでオススメです。

メキシコシティ歴史地区は、スペイン人に征服されるまでこの地で勢力を誇ったアステカ王国の首都テノチティトランの中央神殿があった場所であり、その後スペインによる征服の覇を広げる中枢となった場所でもあるので、いつの時代もメキシコの要所になってきた場所です。

歴史地区の中心には、植民地支配の活動拠点となった壮大な国立宮殿とソカル(中央広場)とカテドラル(教会)があり、それを見るだけでも行く価値あります。
メキシコの大小ある都市は、こうしたカテドラル(教会)とソカロ(広場)を中心に、街が広がっている構造な場合がおおく、歴史地区はその超々々巨大バージョンといった感じです。
王宮の中には激動のメキシコ史に関する壁画が描かれ、メキシカン・バロック様式の大教会のスケールには圧倒されること間違いありません。

カテドラルのすぐ近くでは今も、古代アステカ王国の遺跡の発掘が地下でおこなわれています。
なぜ、地下なのかというとアステカ王国の首都テノチティトランの中心は、今は無きテスココ湖の西岸にある小さな島にあって、スペインからの征服者たちは、各地の反民族勢力とともにアステカ王国を滅ぼした後、これら神殿の廃墟の上に今のメキシコシティの中枢を築いたからなのです。
だから現在でも多くの遺跡が残る地下で発掘がおこなわれているというわけなのです。

歴史地区を訪ねた後は、ソチミルコ運河に向かいました。

ソチミルコ

ソチミルコ運河はメキシコシティの郊外にあるので、地下鉄と路面の電車を乗り継いでいくことができます。
四方を山々に囲まれたメキシコの盆地の水事情は、昔から複雑で、運河ではそうした昔の人々の苦労を垣間見ることが出来ます。
特にチナンパ農法という方法で畑作がおこなわれていたことが知られています。

チナンパ農法というのは沼地に水草を何層にも敷いて、その上に盛土をしていき、常作の畑とする方法を指します。
盛土には湖底の栄養たっぷりの泥土がつかわれ、畑は生産性に高かったといわれています。
ソチミルコ運河では、黄色や赤やピンク色の鮮やかな船に乗って、当時の運河と農地跡を楽しむことができます。人懐っこい地元メキシコ人の出店や商店が出ていて、コロナでも買って、飲みながら船旅を楽しんでみてはいかがでしょうか。

ピラミッド

テオティワカン遺跡と巨大都市、国立人類学博物館

テオティワカン遺跡はメキシコシティから北に50kmほどの所にある遺跡です。今回は半日の観光ツアーに参加しました(メキシコ観光さんでは日本語のツアーもあるので便利です)。ツアーの所要時間は約4時間とのことだったので、特に人が少ないという午前中を狙っていきました。

テオティワカンという遺跡はずっと祭りとか神事をするだけの場所だと思っていたのですが、ガイドさんによるとどうやらそうした祭祀の機能はこの場所の一部機能でしかなく、テオティワカン自体はとんでもない巨大都市だったということらしいのです。

テオティワカン

遺跡につくとすぐに太陽と月のピラミッド群やケツゥアコアトル神殿が見えてきました。
これら遺跡群は20km2という広大な土地の中心にあって、その壮大さは度肝を抜かれます。当時はどれほどの影響力であったのでしょうか。
この神殿群を中心にして、当時では最盛期で20万人ほどの人が暮らしていたといいます。

遺跡では発掘調査を見ることも出来ます。
ガイドさんの話だと、この地には紀元前500年(先古典期後期)ごろに小さな集落が点在していたらしいのですが、パトラチケ期(前150年頃)やツァクアリ期(紀元後150年頃)といった何やら難しい時期を経て、紀元後、西暦500年ごろには最盛期に達し、その後、西暦650年頃に衰退していったということでした。
だから、何と1,000年かけてこのテオティワカンの都市が築かれていった‼ということになるのだそうです。

遺跡の見所は、なんといっても壮大な神殿建築やピラミッドと、それに施されたジャガーやケツゥアコアトルの見事な装飾です。

 ピラミッド

現地では独特なタル・タブレロという建築様式も見ることが出来ます。

ケツゥアコアトル

このテオティワカンの街では交易も盛んであったようで、発掘品から翡翠や雲母などが見つかっています。遠方では北米のトルコ石、熱帯雨林の動植物などが持ちこまれた証拠も見つかっているようです。

驚いたことにこのテオティワカンの街には、東のメキシコ湾からきた商人達やオアハカのサポテカ人といった、いわゆる「外国人」が暮らす居住地があったらしいのです。
こうした発掘された外国人たちの居住地では、床張りや石積み、墳墓などにそれらの出身地の伝統がみてとれるといいます。驚きです。

タコスを食べて少し休んで、午後はメキシコシティにある国立人類学博物館に行きました。夜7時までやっているとのことでしたのでゆっくり行きました。

タコス
持って行ったガイド本には丸一日かけても全部見られないと書いてあったので、早々に急ぎ足はあきらめて、午前中に行ったテオティワカンの展示を見てみました。
まだまだ記憶が新しかったらしく、いつもだったら足が棒に頃なのですが、楽しめました。当時の色彩なんかが再現されていたり、太陽のピラミッドにあったドクロの円盤があったりと遺跡を訪れてなくても楽しめます。

カレンダー
同時代に栄えていたマヤやオアハカ文化の展示と比べてみても面白いと思います。おみやげ屋さんはココでしか手に入らない骸骨とかが多いのでチェックしてみてはいかがでしょうか。

プエブラの教会

プエブラ“天使の街”~教会とモレ・ポブラーノとタラベラ焼き

プエブラというのはスペイン語で田舎とか町とかいう意味ですが、現在は人口140万人の巨大都市で、特にスペイン統治期に建てられたコロニアル建築が有名な街です。
プエブラ

スペイン統治期にはフィリピン・マニラとのガレオン船貿易を介して、東アジアの品々がメキシコに流れてきました。
そうした品々は太平洋岸のアカプルコから反対の大西洋側のベラクルスへと運ばれましたが、プエブラはそのベラクルス港とメキシコシティを結びつける都市として開発されました。ここのコロニアル建築都市は、1987年に世界遺産に登録されました。
登録後、歴史地区がきれいに整備され、観光地として、現在は変貌を遂げています。

プエブラの開発には宣教師たちも関わりが深いため、教会も見所の一つです。大昔に天使が街の教会に巨大な金を吊し、それが今でも残っているという伝説も残っているほどです。宣教師たちが作った教会もおおく残り、別名「天使の街」と呼ばれています。

プエブラの教会

街を歩いていると、プエブラの名物料理チョコレートの看板が目につきます。現地ではモレ・ポブラーノという名前で呼ばれ、主にチョコレートソースのことを指します。

モレ

メキシコ人とチョコレートの関わりは長く、その原料のカカオは中南米が原産です。
かつてはカカオから作ったチョコラテは、高貴な人しか飲めない高級品でした。なんとカカオ豆には貨幣やお金としての側面もあったといいますから驚きです。
ある研究文献によると昔は、雄の雌鳥がカカオ豆100粒と同じ価値を持っていて、取れたてのアボガドはカカオ豆3粒ほど、大きなトマトの実はカカオ豆1個と同じ価値を持っていました。とても興味深い話です。
カカオはたくさん採りすぎると幻覚作用などを起こすらしいのですが、昔はトウモロコシや様々な薬草と混ぜられて、薬用として親しまれたということです。

プエブラの街を歩いている目に入ってくるのが、タラベラ焼きという陶器です。白色とコバルトブルーを基調としたその色合いは、日本人にも受け入れやすく、お土産にはもってこいの陶器です。
この陶器は、スペイン統治期のメキシコにおいて、修道士たちが教会を故郷スペインと同じように鮮やかな色に装飾したいという思いより、その技術が伝わったと言います。鮮やかな色使いの中にある白地やコバルトブルーといった落ち着いた色使いには、アラブの影響もあるといわれています。
宗主国であったスペインの影響だけでなく、その前にスペインに攻め込んで、一部領土を占拠した北アフリカ、アラビア回教徒の影響が色濃くみられるという点はとても興味深いのではないでしょうか。

プエブラの中でも観光客が訪れるメインの通りには、タラベラ焼きのお店がたくさんありますが、認定業者でないものやふっかけてくる店などもありますので、注意して買ってくださいね。

テキーラ

酔いどれグアダラハラ~テキーラの名産地・テキーラ村で試飲三昧

グアダラハラの近くにはテキーラの名産地がありまして、今日は少し足を延ばして、酔っぱらいに来てみました。いやテキーラ大好きなんですよ。

テキーラというのは、竜舌欄という植物からつくった蒸留酒のことを指します。世界に273種類ある竜舌欄のうち、ブルーアガベという種類を使って、特別に作られたものだけを指していいます。
竜舌欄という植物はアロエ葉のような肉厚の尖った針っぽい形の葉をしていて、果肉が厚くて、緑色の鋭い葉っぱが何本も空に向かってはえています。

アガベ
このブルーアガベですが、生育にはなんと7~12年ほどかかるそうです!!ブルーアガベが開花するのは、その生涯で一度だけで、その時には茎が高さ10mほどまで延びるそうです。
花が開花し、受粉後に実をつけますが、そのときにできる巨大パイナップルの果実のようなものがテキーラ酒の素となるのです。

アガベ

このブルーアガベの果実なのですが、驚いたことに軽いもので重さ36kgもあり、大きく重いものでなんと136kgもあるというのです!ただの一つの実ですよ。

この適当な大きさになったブルーアガベの実ですが、Jima(ヒマ)という面白い名前の専門職によって刈り取られます。
刈り取られると、窯で柔らかく蒸し焼きにされ、圧搾し糖液がとりだし、その糖液に水や酵母をくわえて発酵し、のちに蒸留して濃度をあげ、熟成させます。
この工程が終わるとテキーラ酒となるわけなのですが、昔は石窯で蒸したり、臼で圧搾したりといろいろ大変だったみたいです。便利な道具に感謝です。

グアダラハラ

このグアダラハラ近郊のテキーラ村には街からツアーバスでいくことができます。現在、その景観と村は世界文化遺産に登録されていますので、撮影スポットとしても抜群ですので、是非足を延ばしてみはいかがでしょうか。

テキーラ村でしこたま飲んだ後は、余裕があったら、軽く千鳥足でグアダラハラの街の壁画を見に行きましょう。
グアダラハラ市のカバーニャス文化センターには、壁画運動の筆頭であったホセ・クレメンテス・オロスコの描いた「炎の人」という名の天井画があります。

テキーラ
壁画には赤く燃え上がったような司祭が描かれています。その司祭はイダルゴ神父として知られるメキシコ独立のために立ち上がった革命の徒です。
燃え上がるような壁画をほろ酔い気分でみていると、イダルゴが現代に戻ってきて、「くたばれガチョピン!!」といって革命時代を再現してくれるような気持になります。
ちなみにガチョピンというのはスペイン人への蔑称で、この言葉が革命の合言葉になりました。

オアハカ

オアハカ盆地歴訪~モンテアルバン、オアハカ博物館、イエルベ・エル・アグア

オアハカはメキシコ高原地域から南にある広大な盆地地域です。テオティワカン遺跡のあるメキシコ高原同様、オアハカ盆地も非常に古い歴史を持っています。

オアハカ

このオアハカ盆地で定住が始まったのは、紀元前1500年より前といわれています。
オアハカ盆地の中にはそれぞれエトラ、トランルータ、グランデという3つの地方があります。
この広大なオアハカ地域は農耕や集団形成に適し、中でも紀元前500年に中央の高台山にサポテカ人がつくった有名なモンテアルバンの遺跡はこのオアハカ盆地統治における重要な拠点であったと考えられています。
なので、オアハカ盆地にはいくつも遺跡がありますが、モンテアルバンははずせません。
ツアーに参加していってみましたが、高台からの盆地の景色は、期待以上のものです。やっぱり高台からの景色というのは平原から見た時よりも壮大で、写真撮影にももってこいでした。

モンテアルバン見学が済んだら、ぜひオアハカ博物館へと足を延ばしてみてください。丸一日では足りませんので注意してくださいね。

モンテアルバン
博物館のオススメは美しい翡翠(ひすい)の仮面や黄金の装飾品です。テクノロジー全盛の現在でも、こんなに人々が惹きつけられるのですから、当時のサポテカ人やオアハカ盆地の住人には絶大な効果があったのではないかと思います。
ぜひとも一つ持って帰りたいものです。

さらにオアハカ盆地の当時の暮らしに思いを馳せたい人には、エスノボタニカル・ガーデン(ehtnobotanical garden)もオススメの場所です。
園内には巨大なサボテン類が沢山あります。メキシコ人は生食でサボテンの実を食べるくらいですから、昔はもっと大事な植物だったのかもしれません。園内ではガイドもついてくれますから安心です。

オアハカ盆地の東側のエトラ地区にはサラド川という川が流れていまして、その奥のミトラ遺跡のそのまた奥に、イエルベ・エル・アグアという山間の綺麗な泉があるんです。泉の中に入ることもできますので、旅疲れの身体を癒すにはもってこいです。
岩肌が滝のような流線を成していて、それもまた見事な風景の一部になってくれます。これでメキシコ美人が泉に一緒に入ってくれたなら・・・一人旅は時に寂しくもあるものです。

風景

研究者の間では、この泉や底から流れ出る水が、かつてはオアハカ盆地でつかわれた灌漑用の水とその供給源であったのではないかとわれています。
しかし、近年の研究では、この地域の水は、塩分濃度が極めて高く、もしかしたら塩の産地であったのではないかという見解も出てきているようで、研究者の間でも意見がわかれているようです。
オアハカ市内には色彩豊かな建物やおみやげもありますので、街歩きにももってこいです。ぜひ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

アカプルコ

アカプルコ~Viva la 南国リゾート!

アカプルコは湾を囲むように町が発展していて、まるで日本の南国、熱海のような形をしています。
太平洋側のメキシコ有数のリゾート地ですが、最近では治安が心配されています。ただ、カンクンまで足を延ばさなくてもリゾート気分が楽しめますので、まだまだ人気の観光地です。

アカプルコといえば勿論、青い海、豪華リゾートホテル、南国ムード一杯の街並ですね。

アカプルコ
海ではパラセーリングやシュノーケリング、スキューバダイビング、ウォータースキーや夕日のサンセットツアー、大物狙いのスポーツフィッシングなど、盛り沢山のアクティビティが楽しめます。

アカプルコのサーファー

ホテルに戻ればメキシコ料理のレストラン、部屋ではルームサービス頼んで、ゴルフコース回って、屋内プールなんかではしゃげるのも魅力的です。
おそらく裸でいっても何も心配いりません。勿論、いきませんけど(笑)。

アカプルコの女性

遊び所満載のアカプルコですが、史跡巡りが好きとかメキシコの文化を楽しみたいという人にはいまひとつの場所と思われるかもしれません。
ただ、なかなか興味深いものもありましたので、今日は幾つか紹介します。

時はスペインによるメキシコ統治時代、このアカプルコの街は、世界の海を横断する巨大貿易網の一端を担っていました。
スペインは、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコ間を船でつなぎ、そこからもたらされた富は、中米地峡を経て、メキシコ湾岸のベラクルスへと運ばれ、ヨーロッパのイベリア半島まで東洋と新世界の富を運んでいきました。
フィリピンは同じくスペインの統治下にあり、スペインはそうした世界各地の植民都市を繋いだ世界貿易を構築したわけですから、非常にスケールの大きな話というわけです。

当時、マニラ-アカプルコ間は、ガレオン船という巨大な帆船がつないでいました。特に東洋の絹や絹製品には高い価値がつけられました。
ガレオン船は、東洋から香辛料やこうした絹を運んだため、通称「絹船」などと呼ばれていました。
当時、海賊からこうした物資を守るために高台には砦が築かれ、それが現在のアカプルコ博物館になっています。中では当時の雰囲気が楽しめるのでオススメです。

フィリピンへの航路、つまりメキシコからアジアへの航路で運ばれたのは、銀でした。メキシコ中部のサカテカス銀山は、ボリビアのポトシ銀山と並ぶ世界最大級の銀山で、ここから採れた銀がアカプルコ港からアジア市場へと運ばれていきました。
サカテカス銀山までは距離がありますが、近くのタスコという銀山の街に行くツアーあります。メキシコシティからも近く、安価で良質な銀製品が買えます。ぜひ散策してみてはいかがでしょうか。

タラウマ

チワワ太平洋鉄道~チワワ、クリール、ロス・モチス、マサトランへ

北メキシコの太平洋岸にはソノラ・シナロア州というメキシコでも有数の農業地帯があります。ロス・モチスやクリアカン、マサトランという名の都市が栄えています。
北海岸部の集落の起源はそうとう古いのですが、現在のような大きな都市が形成されたのは比較的最近のことで、その経緯はとてもユニークです。

ロス・モチスやマサトランの発展は、19世紀後半の「ユートピア社会主義者」たちの入植によってもたらされました。

マサトラン
ユートピア社会主義者とは、資本の蓄積主義的な考え方が蔓延する社会において、共産的な理想的な平等社会を創ろうとした人々のことを指します。

中でもこの地域の入植に熱心だったのは、ドイツ人のジョージ・ラップを創始者とするハーモニスト・ソサエティという結社でした。
こうした入植者たちがチワワ太平洋鉄道やトボロバイポの港の基礎をつくり、この地を世界的な場所へと導くため、こうしたインフラ設備に力をそそいだのです。

現在、チワワ太平洋山岳鉄道はロス・モチスよりチワワ市まで続いています。長さは650kmに及び、最高高度は2400mです。

驚くべきことに当初の計画では、この太平洋鉄道はアメリカ中部にあるカンザス市からこのロス・モチスまでをつないで、アメリカ中西部カンザスの家畜牛をメキシコで売ろうという、シベリア鉄道クラスの超長距離鉄道が計画されていました!
しかし、世界でも有数の峡谷(バランカ・デ・コブレというグランド・キャニオンにも匹敵する峡谷)を克服せねばならず、建築には相当額の資金が投入されましたが、その壮大な計画は実現できませんでした。

その後、立案より80年経った1961年に現在のロス・モチス-チワワ間が開通しました。
特急列車だと15駅程度ですが、地元の人々がつかう普通列車は、50もある小さな集落へと停まり、地元住民の暮らしを観察することができます。

線路
車窓からの絶景に次ぐ絶景は、息をのまずにはいられません、、、実際、絶景が盛りだくさん過ぎて、麻痺しました。

途中、停車駅のクリールによりました。

クリール

街には出店がたくさんでていました。周辺に暮らすタラウマラ族の人たちもきており、活気もありました。
このシエラマドレ・オシデンタル山脈地帯の中にはタラウマラ族と呼ばれる人々の一部が今も山の中で暮らしています。

タラウマ
もちろんむやみに接触することは避けなければなりませんが、こうした峡谷の中で暮らす彼らの生活に思いを馳せてみるのも楽しいものです。

チワワからロス・モチスへと低地へ下り、そのまま海岸を進むと海岸リゾートのマサトランにつきます。高低へと暮らしが移り変わる様も見所です。メキシコシティからは遠く、気軽に足は延ばせませんが、時間のある方はぜひ行ってみてください。

 

クエルナバカ

クエルナバカ~山腹からのキリスト教布教

今日はクエルナバカという絶妙な名前の街にやってきました(笑)。変な名前なので気にはなっていましたが。今日のお目当ては世界遺産の「ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群」と、その一部があるテポストランという田舎町見学です。

ちょっと歴史をかじってみますと、クエルナバカ周辺のポポカテペトル山腹には、スペインによる統治がはじまった16世紀初頭にカトリック修道会が教会群を設立しました。当時、教会の数は200以上になったともいいます。

クエルナバカ
勿論その目的は、新大陸での布教にあったのですが、こうした非常に集中的な教化地区の開発が、新大陸における短期間での教化を可能にしたのではないかと考えられています。メキシコ史を考える上で重要なこの場所は、現在は世界遺産に選定されています。

こうした教化活動をすすめたのは、ヨーロッパのフランシスコ会やドミニコ会、アウグスティノ会といったカトリックの修道会で、いずれも12世紀から13世紀に設立されたものでした。
なかでも厳しい戒律と清貧をモットーとするフランシスコ会は、コロンブスによる西インド諸島の発見の熱心な支持者であり、彼の帰国報告はフランシスコ会士の間でも大きな反響を呼んだといいます。

フランシスコ会はコロンブスの第二回の航海の際に、すくなくとも2名に会士を同行させ、1503年に最初の修道院をサントドミンゴに創設し、それ以来、新大陸での組織的な布教を展開してきました。

クエルナバカにもそうした時代に建てられた大聖堂があり、そこから40kmほどいったテポストランという街にも見事な教会群が残っています。塔のような建物で、当時の布教活動が如何に難しかったかを物語っているようです。

クエルナバカ

テポストランという街は、あまり開発が進んでいるところでもなく、ゆったりとした時間の流れを楽しみたい方にもオススメです。
最近ではこの街で作られた「闇のあとの光」という映画が、カンヌ映画祭で監督賞をとりました。メキシコ神話の神ケツアコアトルが生まれた場所としても知られており、芸術家が数多く暮らしています。

街からはポポカテペトル山が見えます。オリサバ(5760m)に次ぐ、メキシコ第2位の高山です。(※画像はプエブラから撮影したものです)

ポポカテペトル

ポポカテペトルとはなんともチャーミングな名前ですが、現地先住民の言葉で、「煙を吐く山」なんて呼ばれるほどの火山です。これまで幾度も噴火しています。登ることはできません。いつか登ってそのメキシコ市の舞台となった高原を見下ろしてみたいものです。

見た目が富士山そっくりなので、メキシコ富士なんて呼ばれることもあるようです。未確認飛行物体が頻出する場所でもあります(笑)。興味のある方はぜひ。

カスケーダド・バサシアッチ

チワワ、メキシコ砂漠~貧しき農民たちの夢

メキシコシティよりはるか北に行った所にチワワ州とその周辺地域があります。チワワ周辺は観光地向きというわけではありませんが、奇妙な自然を見ることが出来ます。また、パキメと呼ばれる一級の古代遺跡もあります。
若干、往来に時間はかかりますが足を運ぶ価値のある場所です。

チワワ州や北メキシコという場所は、メキシコ史的にも重要な転換点を担った場所でもあります。

ララムリス

20世紀初頭にメキシコは外資インフラを積極的に取りいれて国家の発展を進めていました。その中心人物であり、鉄の男(man of iron)として知られたのがポリフィリヲ・ディアス大統領です。
長きにわたり政権を担い、人気者でしたが、年老いるにつて、その政権は腐敗し、独裁的な国家体制へと傾いていきました。
こうした中、最初に改革の意を爆発させたのは、自然豊かなこうした北部州の零細な農民や牧民たちでした。

1910年6月にフランシスコ・マデロがメキシコ革命を宣言すると、北メキシコで先住民の血を引くエミリアーノ・サパタや将軍フランシスコ・ビジャ(別名パンチョ)がそれぞれ革命群勢力として活躍しました。
大統領は追い詰められ、政権を譲り、国外へと逃れましたが、政治権力をめぐって内部対立が続き、紆余曲折の結果、幾度もの血なまぐさい暗殺や大統領交代がおこなわれました。

10年後一応、革命は終息しましたが、こうした革命の意志は、20世紀中葉のカルデナス大統領による農民や先住民への農地分配などといった政策に踏襲されるまで混乱を極めたことが知られます。
北メキシコにはこうしたメキシコ史の舞台になった街が数多くあるのです。

現地ではまぁ、別にとりたて何をするというわけではありません。
こうした革命の機運あふれる土地へと訪れるだけの旅というのも一興あっていいものです。

チワワ州には砂漠が広がっていて、メキシコシティや熱帯林ではみられないような自然現象を目にすることも可能です。
バサセアチの滝や、荒涼としたチワワ砂漠の中に、突如現れる小さな青き泉も有名な観光スポットです。
クワトロ・シロネガス(4つの沼)という名の泉は、透明度が高く、青く澄んだ水の中には魚などがいて、まるで草原の中にある小さなサンゴの海といった感じなのです。ちょっと遠いので、チワワ市でツアーガイドを頼んでいった方が賢明です。

カスケーダド・バサシアッチ

砂漠には一般人が立ち寄ることはできないのですが、ナイカ鉱山というのがありまして、地下300メートルには、透明な巨大クリスタルがごろごろとあるのです。
超高温になる極限環境なので入ることはかないませんが、こうした奇妙な自然もチワワ砂漠の魅力の一つです。
観光地としての開発はさほどみられませんでしたが、乾燥地帯のメキシコ人の暮らしを見ることができる貴重な経験となること間違いありません。

エル・パソ

メキシコ国境“la Frontera”~メキシカリ、ティワナ

今週は悪名高いメキシコの国境地帯を訪れました。

「ラ・フロンテラ」。山々に延びる金網のフェンス。目の当たりにすると国境というその現実にただただ驚いてしまいます。
80年代にはこの国境線を流れるリオ・グランデで不法移民を担いで渡すかつぎ屋たちがいて、肩車をして、対岸まで運んだといいます。

エル・パソ、ティワナ、メキシカリ、ノガレス、そしてシウダッドフアレスなどは歴史的に重要な街でもあります。

エル・パソ
ただ、観光としておみやげなどは期待できません。フロンテラ=最前線の名は今も健在で、小さな貧しき子供たちでさえ、成功を夢みて危険を冒して国境を越えようとするほどなのです。

見所はほかの観光地とは一線を画するかもしれません。移民局近くにたむろうあやしい外国人風の集団や先住民族たちがその主役です。
車で国境は行き来できますが、メキシコ→アメリカ道がとんでもなく渋滞しているのに対して、アメリカ→メキシコ道には全く車が通りません。
そのコントラストには衝撃を受けるでしょう。

テキサスパソ

こうした北部国境行のバスは何度も軍隊にとめられます。途中で全員がバスから降りて、荷物検査を受けます。
バスの中に軍兵が入ってきて、怪しげな葉っぱとか白い粉とか持っていないかチェックします。迷彩の軍服にライフル背負った若い軍兵たちがチェックに来ます。

日本人旅行者などめずらしいのかメキシコの若い軍兵に「カラテ、カラテ」とか言ってからかわれたりもしました。
なかには足止めされて、バスから降ろされている先住民風の母親と小さな娘の親子もいました。

街ではこうした不法入国者たちを越境させる「コヨーテ」という仕事があり、アメリカの国境警備隊といたちごっこの争いを繰り広げています。
安宿に泊まっている時、500ペソで向こう側に渡らせてやるぞと誘われました。車のトランクの中に隠れていくということでした。
そんな危ない橋を渡る気はなく、「ありがとう」とだけ言って断りました。

気候や風土も独特で、熱帯雨林のマヤ・ユカタン地方やメキシコシティなどの高原地帯と比べると、非常に乾燥していて、西部劇のただ中にいるようです。
乾いた街の中では至る所に壁画が描かれ、そのおおくが国境の開放を訴えています。こうした機運の壁画も見どころの一つです。

この地域はメキシコの中で最も賃金の低く、マキアドーラ政策で特別にアメリカ資本のフォード、モトローラといった大企業が進出しています。
大企業と貧しさが国境で奇妙に混じりあっていました。

ニューメキシコ